世界全体はそもそも何であるのか問うている近年の物語。マルクス・ガブリエルの言及から実際触れてみた感想

 

はじめに

こんにちは。たかさき(id:tkbskk)です。

ドイツ哲学界の新星とされているという1980年生まれのマルクス・ガブリエルは、いちいち適切ではなく適当に口走ってばかりのわたしと、なんと同世代です。

 

そのマルクス・ガブリエルが、著書『なぜ世界は存在しないのか』の最初の最初の方で、「世界全体はそもそも何であるのかという問いを、いくつかの小説や映画に先駆けて、哲学が問うていた」というようなことを書いていました。

 

その際にマルクス・ガブリエルがあげていた、近年の小説や映画に、実際に触れてみた感想を書きます。

 

それぞれの作品で、身体と意識がどこにあると提示されているかなどを解釈してみようとしたら、どうしてもブログ記事にネタバレ要素が出たので、下記の、本3冊を読んでいない方、映画3本を観ていない方は、物語が進むに従って明かされる世界の設定に驚いてみたい場合には、この記事を読まない方が良いかもしれません。

 

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』

ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』

ミヒャエル・エンデはてしない物語

クリストファー・ノーランインセプション

ライナー・ヴェルナー・ファスヴィンダー『あやつり糸の世界』

ウォシャウスキー兄弟『マトリックス

 

それでは、思ったことなどを書いてみます☆

解釈など、いろいろ間違っていたら、先に、ごめんなさい。

 

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』における言及

まず、わたしは、こちらの本を、なんとなくたまたま手にしました。

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

章立ては、以下の通りです。

哲学を新たに考える

Ⅰ これはそもそも何なのか、この世界とは?

Ⅱ 存在するとはどのようなことか

Ⅲ なぜ世界は存在しないのか

Ⅳ 自然科学の世界像

Ⅴ 宗教の意味

Ⅵ 芸術の意味

Ⅶ エンドロールーテレビジョン

 

そして、このブログ記事で触れる物語(小説・映画)は、「Ⅰ これはそもそも何なのか、この世界とは?」の導入部分で、挙げられていた5作品です。

 

(承前)

こうして『チャパーエフと空虚』や『はてしない物語』のような小説、またクリストファー・ノーランの映画作品『インセプション』や、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーのテレビ映画『あやつり糸の世界』―大ヒット作『マトリックス』よりずっと優れた先駆者―のような映像作品が投げかけている問いに、哲学は取り組んできました。そのような問いは、二〇~二一世紀のポストモダン小説やポップカルチャーのなかで初めて立てられたものではありません。眼前に拡がる現実は、ある種の巨大な幻想、たんなる夢にすぎないのではないか。これは、人間の精神史に深い痕跡を残している問いにほかなりません。数千年にわたって、宗教・哲学・文学・絵画・学問のあるところでは、どこでもこの問いが立てられてきたのです。

(『なぜ世界は存在しないのか』pp.35-36 より引用)

 

 マルクス・ガブリエルは、「この世界全体とは何なのかを突きとめようと思うなら、さしあたって、わたしたち自身が知っていると思っているいっさいのことをいったん忘れ、一から問い直さねば」ならないとし、「そもそもわたしたちはどこに存在しているのか問うてみましょう」と問いかけます。

「この世界全体はそもそも何だと考えられるべきなのかと問うより前に、この世界全体はそもそも何であるのかという問いに答えるほうが、ずっと意味があるように思われるからです」。(p.32)

そして、『チャパーエフと空虚』の部分を引用し、また、上記の作品をあげます。

 

わたしたちは、地球にいて、地球は宇宙にあるけど、宇宙はどこにあるかというと、はっきりしなくて、結局、意識の中にあると言ってしまうと、意識はどこにあるのか、となって、意識はどこにあるのか、と問われると、『チャパーエフと空虚』のピョートルのようになってしまいます。

また、「宇宙」は、数ある「対象領域」の一つでしかないのに(マルクス・ガブリエルは、「居間」と対照している)、「世界」と同義と考えてしまうと、人間のことなんか、宇宙の塵(マルクス・ガブリエルの言い方であれば、「蟻の幻想」)だし、あるいは、唯物論的な考えをしてしまうと、現実を、脳やニューロンの作り出した幻影であると捉えるしかありません。

そこらへんの問題を、さらに、丁寧に他の視点も加えて、新しい考えを提示したのが、マルクス・ガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』でした仕事かもしれません。

 

いろいろなことを、縮減しなくて済むような。幻想・幻影だと思わなくて済むような。

 

それで、導入部で、マルクス・ガブリエルがあげた物語は、それぞれに、面白かったです。

決して、マルクス・ガブリエルが「面白かった」と言っていた作品というわけではないですけれども(これらの作品に先駆けて哲学は世界について問うていた、という趣旨で登場した作品群です)、にょろにょろと感想など書いてみます。

 

 

 

『チャパーエフと空虚』

チャパーエフと空虚

チャパーエフと空虚

 

 

作者は、どちらが現実だとも夢だとも言っていなかったような気がしますが、現実においては酒を飲み、夢においてはクスリを打たれ、なんだかシラフではないような中、 現実と夢?夢と現実?を行き来するピョートルが、たまに何やら哲学的な問いを独白しているような小説でした。うすら昏い話です。

友人を殺し、チェーカー活動員になりすましたピョートルと、精神病院でグループセラピーを受けているピョートルが、現実と夢の中で交互に描かれ、同一人物「僕」としての一貫性を保っているようなのですが(精神病院にいる間は、チェーカー活動員の方は昏睡しているようだけれど)、いずれが、夢か現実か、現実か夢か、わたしには、だんだんと分からなくなりました。活動員のピョートルは、精神病院のことを夢だと思っているようなのですが、果たして? 

つまり、ピョートルの意識は、現実と夢の両方にあるのですが、どちらに身体があるのかは、わたしには分かりませんでした。

この物語でも、荘子の「胡蝶の夢」に触れていたけど、そんな感じ。

 

物語自体は、現実でも夢でも、騒ぎや狂ったことが起きまくるので、スリリングです。

それにしても、現実と夢を〈 〉かっこ書きした方がいいかもしれません。どっちだか分かりません。わざわざ、明朝体とゴシック体で書き分けてはいたけど。

 

マルクス・ガブリエルが、『世界はなぜ存在しないのか』の中で引用した『チャパーエフと空虚』は、物語の中盤部分で、群像社の本でいうと、193ページあたりの部分の、チャパーエフとピョートルの会話でした。チャパーエフは、ピョートルが考えるときの導師みたいな役割もします。

引用されていた会話は、マルクス・ガブリエルの文章を見て頂くとして、その後、ピョートルは、

彼は僕に、自分は世界ゆえに存在するのか、それとも世界が自分ゆえに存在するのかという質問に答えさせようとしていた。もちろんそんなものはすべて、陳腐な弁証法にすぎない。だが、それでもそこには僕を不安にさせる何かがあった。彼はそれを、一見くだらない「すべてが起こっている場所はどこか」という問いで巧みに指摘した。もし世界が僕の内面に存在しているのなら、僕はどこに存在するのか。あるいは僕が世界に存在しているのなら、僕の意識はそのどこに存在するのか。

(『チャパーエフと空虚』群像社 p.204 より引用)

と、その「どこでもない場所」を思って、ひとりでいるのが心細くなっていました。

 

ここでは、すべてが起こっている場所、その存在を問い、理屈で矛盾がないように、話を進めていったら、どこでもない場所、空虚に行き着いてしまったようですが、わたしは、その考えに共感できませんでした。なんとなくで、うまく言葉に出来ませんが。

また、読みながら、小説世界の設定や物語に、夢中にはなれませんでした。

なんだか、思想的・哲学的な話が出てくるたびに、夢中から覚めるような気がして、そういうことを書き散りばめるとは、かなり挑戦的な小説なのではないかと。

 

なお、マルクス・ガブリエルが、『チャパーエフと空虚』の部分を引用したのは、おそらく、意識の存在する場所を問うと、方法によっては、虚無の中に存在するという理屈になってしまう場合もあり、そのような証明の仕方は、ちょっと違うんじゃない? ということを言いたかったのではなかろうかと思いました。違うかもだけど。

 

映画化されると本の帯に書いてあるけど、いったい何色の映画になるか、楽しみです。

だけどね、きっと、わたしが住んでる田舎町では上映されない。ぶーぶー。

 

はてしない物語

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

 

 

だいぶぱっとしない、いじめられっ子の少年バスチアンが、ある日、古本屋で『はてしない物語』という本を盗み、授業をサボって学校の物置で夢中で読み耽る。

「ファンタジーエン」という本の中の世界の幼ごころの君やアトレーユといった登場人物の冒険が書かれた物語中に、バスチアン自身のことも書かれて登場しはじめ、物語の中の幼ごころの君に名をつけ、ファンタジーエンの崩壊を止めたことを契機に、バスチアンも本の物語の中のファンタジーエンに呼ばれ、物語の登場人物になります。

本の中、ファンタジーエンでは、バスチアンはとても美しい少年で、アトレーユと友達になったり、活躍したりもするのだけど、自分がでぶで見た目も冴えない少年だったことや、臆病な少年だったことなど、現実世界の自分をどんどん忘れて、最後には、子供だったことや自分の名前も忘れてしまう。バスチアンはアトレーユたちとも敵対するけど、最後には、アトレーユの助けで、現実世界に戻る。

というような話。

 

『チャパーエフと空虚』が明朝体とゴシック体で物語を書き分けていたのと同時に、『はてしない物語』でも、現実部分と物語部分の活字を色分けしています。

 

まとめると、身体は学校の物置にあるけれど、本の中の世界へ入り込んで、現実世界の記憶をなくす。ファンタジーエン(虚構の世界と言い換えて良いか迷うところ…)の人の助けを借りて、現実世界へ戻る。

 

とでも言ったらよいでしょうか。

物語後半のバスチアンは、かなり尊大なことになるのだけど、いろいろと大切なもの(こと?)は何かを問いかけるようなストーリー。

 

ファンタジーエンに行ったことで、バスチアンは、臆病なだけの少年ではなくなり、父親とも和解するのだけど、なんていうか安心して、子供(わたしなら小学生の甥っ子)にも勧められる物語でした。

 

 

 

 

 

インセプション

インセプション [DVD]

インセプション [DVD]

 

ストーリーは、ある人に、ある考えを、眠っているときの夢の中での体験によって無意識に植えつけ、現実での行動に移させようという大作戦映画でした。

夢の層の深さによって、時間の流れ方が変わるようで、深いほど長く感じるみたいです。

また、ある人が、夢の一番浅い層で死んだ場合、現実で目覚めるだけですが、深い層(夢の中の夢)で死んだ場合、さらに深い層(夢の中の夢の中の夢…)に行って、その人を探し、徐々に目覚めさせないと、虚無に落ちてしまって、現実で抜け殻になってしまうようです。

身体は現実世界にあるけれども、意識は、夢の深い層にあり、その間、夢の浅い層では眠ってしまいます。

 

胡蝶の夢」のような「人間のわたし、さっきまでちょうちょになる夢をみてたけど、ちょうちょの夢のちょうちょのわたしの方が現実かしら?」と違うのは、夢への働きかけ方が能動的で、怒涛の展開であるというところではないか。

 

眠っている時の夢は、わたしの感覚では、能動態でも受動態でもなく、中動態的だと思います。

つまり、「見る」でも「見せられる」でもなく「見える」とでもいうのか。「おのずからそうなる」みたいなところがあると思います。

ところが、そのような夢の特徴を覆して、「おのずから」ではなく「わざわざ」「見せにいく」映画です。

ターゲットに「見せにいく」だと、「ホラー映画を見せる」かのようで、ちょっと違う気がします。ターゲットと一緒に、コンセプトを持った「おばけ屋敷に入る」ような感じでしょうか。そして、夢のコンセプトに、積極的・能動的にはたらきかけるような。

 

ディカプリオの妻のエピソードと、ディカプリオの持つコマが印象的な話でした。

 

 

 

 

『あやつり糸の世界』

あやつり糸の世界 DVD HDマスター

あやつり糸の世界 DVD HDマスター

 

 

ちょっと、鈴木光司の貞子シリーズ完結編の『ループ』と似ています。

順番としては、『ループ』が似ています、かもしれません。

 

ループ (角川ホラー文庫)

ループ (角川ホラー文庫)

 

 

デジタルの領域に、人間が、仮想世界を作ります。『あやつり糸の世界』では、「シミュラクロン」、『ループ』では「ループ」と呼ばれる仮想世界があります。

仮想世界と現実(『あやつり糸の世界』では、その構造に留まらず、設定がもっとえぐい)が、互いに影響・干渉しあうような世界観です。

仮想世界にいる人、現実世界にいる人が、それぞれの世界において、身体と意識を持っているものだと思っていますが、上位の(仮想世界をつくった側の)世界の人は、下位の(仮想世界の中にいる側の)世界の人には、身体もないし、ただの電気信号みたいなプログラムだと思っている節があります。

 

わたしは、コンピュータのことはさっぱりで、1と2の二進数、スイッチのオンオフみたいな電気的な信号でデータが出来てるようだくらいの理解しかないですが、そのような存在であると知った仮想世界の人間の気持ちを想像すると、さぞやよろしくない、ということよりも、そのような存在であるとして、仮想世界を観察し、操作する上位の世界にいると感じている人間の方に、なんだかぞっとしました。

デジタルの領域の生命状のもの(意志があるかに見える者)に、感情移入してしまうことには、賛否あるでしょうし、わたしなんかもRPGをプレイすれば、リセットを繰り返すことがあるので、上位の世界に居ると思い込んでるくちなのかもしれませんが、今、よく言われている人工知能や、古くは、手塚治虫の『火の鳥』のロビタ(ロボット)が、わたしは人間だー!と自殺し始めた話などにも通じるものがあるのかなぁ、と思いました。

 

 

 

マトリックス

マトリックス 特別版 [DVD]

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21世紀初頭の現実世界において、人間がAIの進化を恐れて、電気の元となる太陽を雲で覆い隠して以後、電源を求めたAIが、実はエネルギーを発している人間で畑(身体をケーブルでつないで電池みたくしてる)を作って、電力を得ていました。そこにつながれている人間(おそらく数十億)の意識や心は、AIが作った20世紀末風(たぶん100年前)の仮想世界にいるのだけれども、そちらが現実だと思っているし、つながれている人は、そちらしか知らない、というような感じだと思います。

それで、いろいろあって、ネオ(キアヌ・リーブス)が仮想世界から目覚めて、現実の世界があることを知り、仲間と仮想世界にアクセスして、AIのプログラムした仮想世界を維持するためのエージェントたちと戦うような話。

 

身体は現実世界にあるけれども、意識は、現実世界で目覚めた人以外は、常に仮想世界にあるといった感じでしょうか。目覚めた人は、仮想世界にアクセスしてたけど。

 

仮想世界は仮想世界でも、『あやつり糸の世界』とは異なり、『マトリックス』の仮想世界を作ったのは、人間ではなくAIで、現実に目覚めた人間が人類を救うため戦うといった構図なので、薄気味悪さのようなものがそれほどない、といったら、語弊があるかもしれませんが、見ていて葛藤は少なかったです。観たあとの後味は悪くないというような意味です。

 

 

まとめの感想

『チャパーエフと空虚』は、意識は、夢と現実の世界の両方にあるのですが、どちらに身体があるのかは、わたしには分かりませんでした。

はてしない物語』は、身体は学校の物置にあるけれど、心は、本の中(虚構と言い換えて良いか迷うところ)へ入り込んで、やがて現実世界の記憶をなくします。

インセプション』は、身体は、現実世界にあるけれども、意識は、夢の深い層にあり、その間、現実と、夢の浅い層では眠ってしまいます。

『あやつり糸の世界』は、人間の作った仮想世界にいる人、現実世界にいる人が、それぞれの世界において、身体と意識を持っているものだと思っていますが、上位の(仮想世界をつくった側の)世界の人は、下位の(仮想世界の中にいる側の)世界の人には、身体もないし、意識についても、ただの電気信号みたいなプログラムやデータだと思っている節があります。

マトリックス』は、身体は現実世界にあるけれども、意識は、現実世界で目覚めた人以外は、常にAIが作った仮想世界にあるといった感じです。

 

さて、わたしたちはどこにいるのか、すなわち、意識と身体の在り処は、それぞれの物語においては、前述のような感じでしたが、いったい、そのような場合、どこにいるのか。そのどこ(世界)は、どのようなものだと、提示されているのでしょうか。

 

と、わたしは、ここで思考停止です。あわわわ。

わたしたちが現実だと思っている世界は幻想? 身体の在り処がある場所での意識や物事のみが現実? はてさて? という問いを投げかけているのでしょうが、世界観ということになると、どのようなものか説明することばを、わたしは持っていません。キャパシティ超え。

 

そもそも「世界」という言葉の使い方が、結局よく分からない。

 

いずれの物語も、夢、あるいは、仮想世界、虚構の中の人が感じる痛みを描くことによって、観る人・読む人が、身体的に想像できて、話に引き込まれるような工夫がされているように感じました。

夢や仮想世界といった生身の身体(血や涙は出るのかな?)を持たないものを提示することで、現実の生身の身体や意識が存在する「場所」についても問い、その存在する場所を不確かなものとして描くことで、「わたし」自身の存在や「世界」の存在に疑問を抱かせ、物語に引き込み、気持ちの足元をぐらつかせるようなところもあります。

さらに、場所(空間)に留まらず、「時間」についても描くから、たちが悪いです。

「たちが悪い」は、賛辞で、ケチつけてるじゃないです。

 

 

おわりに

わたしは、哲学的に考えるのも、論理的に考えるのも、無理だけれども、現実も幻想も、事実も虚構も、それぞれに必ずしもつながりを持たずに存在していて、ただ一つのまとまった世界の理論のようなものとしては説明がつかない、というのが、ほんとうのところなのではないかな? と思いました。

とりわけ、何かが存在する場所を、空間や時間の「ここ」以外の広いものの中に位置づけようとすることは、下手くそな場合、虚無に落ちてしまうし、危険なことなのではないか。

かといって、考えることを辞める必要もないんだけど。

それで、これらの作品に触れて、ちょっとトリップしてきたわたしですが、結局、意識できる範囲の日々の世界の中で、五感や認知、思考に疑問を抱きながらも、生活するのだろうなぁ、と思いました。

 

いったい、解き明かされるとしたら、どんなからくりが待っているのか、楽しみです。

 

だけど、わたしは、しっくり来た考え方が、鷲田清一ミシェル・セールの『五感』を引用しながら言っていたこと(心や魂が、見えない内面にあるというより、固く結んだ唇のあいだにあったりだとか)のような人なので、そんなに大きな大きな物語は、必要ないのかもしれません。

 

長くなってしまいました。

この近年の物語たちを、哲学や思想の分野で言ったら、どこに位置するのかを教えてくださる親切な方がいると、すごく嬉しいです。

ある哲学や思想が、前の人の反証だったりする分、読みかじっても、理解出来ないでしょう。

だいたい読んでる時間がないですよ。あんな長くて難しい分。いっぱいありすぎだし。

 

おしまい。どろん☆